肝心な『好き』は、伝えたの?

小言のように『嫌い』はボロボロ出てはいないか?


言葉は力になる、これもヒト欠片の本当で、


「感謝」「好き」「謝罪」

些細な事でも、大切な『芽』を育む成分の1つです。


心は

生後、幾つになっても『芽』です。


『木』と例える方も居ますが、

本当にそんなに丈夫そうなものが、みんなに必ずあるのか…?


発想』は『』を伸ばしていくものですが、

』は常に『いくつもの』で、育まれる対象のものです。



心の≪潰し方≫を、

≪教えてられてきた(されてきた)、見てきた、≫


すると、その人を形作る物に、

≪当たり前の行為≫として刷り込まれて、完成しているのだと思います。



おざなりにされがちな、

『感謝』『好き』『謝罪』

「こんな些細な事で言う?」

「この人には言わなくて良いだろ」

「この程度では言わない」

「下に見られそう、無理、言わない」


≪損得での考え≫でも考えていませんか?


(それぐらい普通)

(これぐらいよくある)


『芽を潰す』行為、が刷り込まれているから、

此処まで読んでいても、(気にし過ぎじゃない?)(どこにでもある/ふつう)という方は

そう感じるのだと思います。



日常の

『感謝』『好き』『謝罪』を口にして、

失われる物はない、と思います。




潰す者潰させる者、の お近くに居られる方へ


もし、

重圧的に、強制的に、

『感謝』『好き』『謝罪』を摂取されている場合は、

させてくる対象から、自主的に距離を置いてください、

(度合いの調整も必要な場合もあるでしょうが、

 【例:こいつぁジワジワ離れた方が良さそうだ...】etc...※違う場合もあるのでご注意※)


完全隔離を決めてください、半端はいけません、

自分を守る力を、使っていただきたいと思います。


【1度許すと繰り返す場合もあり、

 無自覚な、心崩壊へ繋がらないように、ご自愛ください】


彩雲になったペンの雫

小さくて、 フワフワな  『ポチョ』との日々